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2008/10/04

あなたな〜らどうする〜♪

な〜くの あるくの しんじゃうの〜♪(しらんわな)


ベルリンで無職のドイツ人男性(56)が道端で現金1万6000ユーロ(約240万円)や金製の宝飾品が入った包みを見つけて当局に届け出たそうだ。男性は身体が不自由な息子と2人暮らしで、月額600ユーロ(約9万円)の失業手当で生活しているという。

「天から自分への贈り物のような気がした、暖房代にも役立てることができただろう。だが私の良心が自制した」と語ったそうだ。自分が同じ境遇で「どうする?」と問われれば即答できない。拾った額にもよるし、その時の経済状態や、精神状態にもよるからだ。

事実ワシは数年前、ローソンの入り口を出たところで財布を拾い(50万円くらい入っていた)、レジに届けたことがある。迷わなかったといえば嘘になる。ヘビ革の財布を拾い、なにげに中をのぞくと万札がギッシリ入っていたのだ。防犯カメラに拾うところが映っているかもしれないし、こんな財布の所有者はヤクザかもしれないし、警察に届ければお礼がもらえるかもとか、いろいろな思いが頭をよぎった。しかしそのときワシ自身、裕福ではないにしろ極端にお金に困ってはいなかったし、なによりましてそのローソンの店長がとても気さくでいい人だったのだ。

後日その店長が話してくれたところによると、落とし主は、自動車を現金で買った帰りで、中のお金はその余りというわけだ。カード類もたくさん入っており、その人は大変感謝していたそうだ。「感謝? それだけかーい!」と思ったが、その時ローソンのおやじは、「これはわたしからのお礼です」といって、ジャンボフランクフルトをごちそうしてくれた。

人生、試される場面が何度もある。善行をしたという満足感に浸りながら、涙目で食ったフランクフルトの美味かったこと。

2008/06/01

自殺3(その心理と行動)




「生きていてもつまらないから死ぬ」という人がいる。まるで「テレビがつまらないから寝る」というのと同じように。その人が悪いのか社会が悪いのか、おそらく両方なのだろう。そういう人が死んでも同情はできないが、せめてせっかく生まれてきたんだから、ドナーバンクに登録してから部品が使えるように死ぬとか、あるいはWHOのボランティアに1年ぐらい参加してから、気が変わらなかったら死ぬとか、ほんの少しでも何か世の中の役にたちたいとは思わないのだろうか。

一方、同情というか感銘を受ける出来事もある。ご存知かと思うが「福井火葬場心中事件」などは記憶に新しいところだ。いい記事だったのでウィキから丸ごと引用させてもらった。人の生き死には、考えれば考えるほど哲学の領域になってしまう。ワシなんかが手に負える代物ではないので、とりあえずいつ死んでもいいようにデスクトップにあるエッチ画像は消去しておこうと心に誓った次第だ(まだ消してなかったのか)。

福井火葬場心中事件(2005年11月)
福井県大野市の旧火葬場で焼かれて白骨化した二人の遺体が見つかった。歯の治療痕などから近くに住む80歳の男性と82歳のその妻であることが分かった。

付近には乗用車がエンジンがかけられたまま放置され、クラシック音楽が大音量で流されていた。不審に思った近所の住民が警察に通報。使用されなくなって30年たつという火葬場の火葬炉から二人の遺体が発見された。

二人は近所でも仲がいいと評判の夫婦だったが子供はなかった。妻は糖尿病を患い、ほとんど歩けなくなっていた上に数年前から認知症の症状が出始めていた。夫が車を運転して近くの病院に通っていたほか、掃除や洗濯など妻の介護を夫がすべて引き受けていた。そのため将来を悲観しての心中と見られた。

その翌日、市役所に夫からの遺言状と見られる手紙が届いた。手紙には住居や田畑などの不動産が細かく書き記され、「遺産は全て市に寄付します。」と添えられていた。書類の作成は約一年前と見られ、心中が周到に準備されていたことが窺えた。

使用された乗用車の中からはガソリンスタンドの伝票の裏にその日自宅を出てからの行動が事細かにメモされていた。

「午後4時半、車の中に妻を待たせている。」
「午後8時、妻とともに家を出る。」
「車で兄弟宅や思い出の場所を回って焼却炉にたどり着いた。」
「妻は一言も言わず待っている。」
「炭、薪で荼毘(だび)の準備をする」
「午前0時45分をもって点火する。さようなら。」

車から流れるクラシック音楽の中、二人はいっしょに火葬炉に入りロープを使って扉を閉めた。二人は寄り添ったまま骨になった。永遠を誓い合う結婚式のようであったという。

2008/05/31

自殺2(流行に乗り遅れるな)



自殺が非道徳的だと誰がいえよう。たとえば長期に渡って治る見込みのない病と闘ってきた人が自殺したらどうだろう。多くの人は同情するに違いない。坊主がよくやる(よくはやらんか)即身成仏だってそうだ。究極の悟りを開いて自ら土中に入定して仏になるらしい。これだって立派(?)な自殺だ。自殺する人の中には、不治の病に匹敵するような出来事や事情がある人もいるのかもしれない。

本でこんなはなしを読んだ。青木ヶ原に自殺者の捜索回収にいった人が地面にへたり込んで呆然としている人をみつけた。聞けば首を吊ろうとしたら、枝が折れてしまい地面に落下しておもいっきり尻を打った「ほんとうに死ぬかと思った」といったそうだ。多くの場合こんなものだろうし、その人もきっとその後、自殺は思いとどまったのではないだろうか。

自殺に関しての講釈はウィキペディアにたっぷり書いてあったので、興味がある人はそちらを読んでもらうとして、前回も書いたが、なにもいま、今日じゃなくてもいいだろう。明日だってあさってだって別に構わないんじゃないかい。とりあえず今日はブラッと海にいってみるとか、山にいってみるとか、そこにあった寺にでも泊めてもらうとか。いつもと違うことをやってみようではないか。

それでも、どうしても今日じゃなきゃダメという人は、チンポールでも六一〇ゲップでも用意してもらうとして、別にいつでもいいと思っている人に、ワシがとっておきの硫化水素より強烈なやつを教えよう。それは“タマゴ”と“しょうゆ”を混ぜるのだ! 炊きたてのドンブリ飯も必要だ。時間は皆が寝静まった0時過ぎがいいだろう。

お椀に入れたタマゴにしょうゆをそそぎ箸で勢いよく混ぜる。さらに用意したドンブリ飯にかけてさらに混ぜる。旨味ガスが発生した瞬間、一気にかき込めばしばらく放心状態になるだろう。血糖値が上がりだんだん眠くなってきたらそのまま逝ってしまいなさい。翌朝目が覚めれば少しは気が変わっているかもしれません。ちなみにタマゴの代わりに納豆でもよろしい。女性には紅茶とミルクのほうがいいかもしれない。

映画『ヒトラー(最後の12日間)』で、ヒトラーも自殺して、残された兵士も何人か自害していったとき、一人の将校が同僚にパンを渡しながらこう言った「とりあえず食え、いつでも死ねる」。

最後に、硫化水素は口臭やオナラにも微量ながら含まれているそうだ。材料が両方流されている下水はきっとたくさん発生しているだろうなぁ。まてよ!各地の温泉場じゃ危なくてカビキラー使えないじゃないか!

2008/05/30

自殺1(流行に流されるな)



話題沸騰の「硫化水素」。ほとんどのメーカーは材料(商品)を出荷停止にしたとか、ストアでは棚から消したとか、警察は作り方が掲載されているページを削除させたなど、いまや社会問題になっている。しかし自殺者は後を絶たない、断たないどころかうなぎ上りに増えている。

ハッキリいえることは「楽(?)に死ねるのだったら死にたい」と思っている人がいかに多いかということだ。痛かったり苦しいからいままで自殺に至らなかっただけで、苦痛を伴わないのだったらイッペン死んでみたいと考えている人が、もともと相当いたということを裏付けている。

だがはたして本当に“楽”なのだろうか。生き返って『全然苦しくなかった』と証言した人はいないのだ。身体がまったく動かなくても意識がないとはいい切れないだろう。よしんば一瞬で意識がなくなり、苦痛も伴わないとしても、あえて惨たらしい遺体(どこかに公開してあったらしい...)を他人にさらけ出すような死に方を選択できる人の気持ちは、ワシにはわからない。以前では楽に死ねそうな方法として一酸化炭素が多かったが(先日もアナウンサーの女性が...)今回のように流行ともおもえるほど連鎖はしなかった。

死というのはふつう苦痛を伴うのがあたりまえで、自殺しようとする人はその“死ぬ苦痛”と“生きる苦痛”を天秤にかけて、「死んだほうがましだ」と結論づけて行動に移す。それが楽だとなれば当然生きる苦しみのほうが重くなるし、ましてや辛い経験の少ない若い人は、些細な出来事も重く受け止めてしまうのは無理もないことだ。

ワシはこの歳になるまで真剣に死のうと思ったことは一度もない(死んでもいいと思ったことはある)。それだけ運のいい半生だったといわれればそれまでだが、ようは人生どれだけ感じられたかだと思っている。普段ニコニコしていられて、時々泣いてたまに怒って。いろいろなことに感銘を受ければそれはそれで楽しい。

孔子だったか論語にこんなのがある。

朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり
(あしたにみちをきけばゆうべにしすともかなり)

人としての真の生き方を悟ることができたら、たとえその日のうちに死ぬようなことになっても悔いはないという意味らしい。真理や道徳の尊さや、それを学ぶことの困難さを説いた言葉だという。なんとまあスゴイ考え方だ。しかしどう生きようが誰だっていずれ死ぬ(近所の92になる荒川のジイさん以外は)。なにも今じゃなくてもいいだろう。 ....つづく